ぽんは愛するより愛されたい

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オーディブルで聞く「90歳、なにがめでたい」

最近、オーディブルというアプリにはまっている。

私は読書好きだが、最近は本を読むのがほとほと面倒に感じるようになってしまった。とにかく、本を開くのが面倒くさい。字を目で追うのが面倒くさい。そして何より面倒なのが、一度本を開いてその中に旅立ってしまうと、読み終わるまで私の意識が本の中から帰って来なくなることだ。本を読み始めると、特に小説を読み始めると、私の意識は完全に現世から離れてしまう。本の世界の中をフワフワ漂って、続きは何だ、あのセリフの本当の意味はどうだ、あの主人公の行動の裏にはいったいどんな気持ちが、等々。想像が想像を呼んで、現世で起こるあれこれ、仕事とか家事とかその他の話が全く脳に届かなくなってしまう。ここから現世に帰ってくるのが大変で、本を読むのは面倒だと避けるようになってしまった。

でも、本を読みたい気持ちはある。あの没頭する感覚は、本の中の世界でふわふわ漂う感覚は好きなのだ。本は読むけれど、サッと現世に意識が返って来られるようにしたい。そんな私の願いを今一番手軽に叶えてくれるのが「オーディブル」だった。オーディブルは本を朗読した音声を聞けるサービスだ。オーディオブックと言われていて、車で移動することの多い欧米ではよく使われていると聞いたことがある。私も仕事場まで車で移動することが多いのだが、残念ながら運転は好きではない。ほとんど毎日運転して、驚くことにゴールド免許を持っているが、未だに車幅はつかめないし、器用に車線変更できない。オロオロして疲れてしまうし、その反面、運転はとても退屈だ。音楽ぐらいでは私の退屈は紛らわせないし、テレビを見るときっと何かをひいてしまう。それはいけない。そこで、オーディブルを聞いて、少しでも車移動を楽しくしようと思ったのが使い始めたキッカケだった。そしてそれは大成功。毎日移動中にあれを聞こう、これを聞こうと思うと運転は嫌ではないし、他の退屈なこと、例えば料理皿洗い片付け掃除洗濯物などなどをする際にも聞いて、読書をした気分になるととてもいい。そして何よりいいのは、耳から読書をすると、当たり前だが目はフリーになっていることだ。その目は現実世界のアレコレをしっかり見ている。すると、読書したあとに現世に戻って来やすいのだ。気持ちの切り替えが簡単。これが、私がオーディブルに感じた一番の魅力である。

最近、そんなオーディブルで「90歳なにがめでたい」という本を読んだ。数年前に大ヒットしたエッセイだったらしい。いつも小説ばかりではつまらないと、本当に軽い気持ちで選んだエッセイだったが、これがとびきり面白かった。もう、全編がおばあちゃんの愚痴なのだ。延々とおばあちゃんの愚痴が書き綴られている。ただ、やはりエッセイを書く人は愚痴の書き方も一流だ。しっかり愚痴を書いた後、しっかりオチをつけている。そのオチが面白くて、鬱陶しいはずの愚痴がキラキラと輝きだすのだからすごい。最後まで聞いて、あまりの軽快さにもう一度聞きたくなってしまった。あれは名作だ。

私の知り合いのおばあちゃんに、あんたは欲がないね、と言われたことがある。確かに私はあまり欲深い方ではない。特に欲しいものがたくさんあるわけでもないし、日常にはすっかり満足している。もっとお金が稼ぎたいとは思うが、そのために死に物狂いになるほどお金に困っているわけでもない。もっと贅沢がしたいと思うこともあるが、別に贅沢をしなくても満足してしまっているのも事実だ。最近は怒ることもないので、愚痴を言うこともほとんどない。

けれどそんな私も、思春期だった中学生の頃、ずっと何かに怒って反発していた。私の周りには嫌いなものばかりだった。とにかく、あの頃は世界の全てだったはずの学校というものが大嫌いだった。同級生が嫌い、先生が嫌い、部活が嫌い。毎朝同じ時間に家を出るのも嫌いだったし、挨拶運動とかいう謎の運動も嫌いだったし、校門に飾られている何かで賞を取ったらしい大菊も嫌いだったし、職員室の前の廊下に並んでいる動物の入ったゲージも嫌いだったし、突然クラスメイトとして迎えられたタヌキ(普段は中庭の檻の中で飼われていた)も嫌いだった。何故タヌキをクラスメイトという設定にしようと思ったのか、それ以前に中学校の中庭でなぜタヌキを買おうと思ったのか、今考えても謎である。

気に入らないものに1日の大半の時間を吸い取られる、それこそ一番嫌いだった。 友だちなんて要らなかったし、何かにつけ目の敵にしてくる先生たちに気に入られたくもなかった。嫌だ嫌だいやだ。私のフラストレーションは、あの頃、表現という形で昇華されていた。 絵を描くのが面倒だから、という理由で、私は小説を書きなぐっていた。隙あれば話を考え、紙とペンがあればそこに文字を書きなぐった。今読めば拙すぎて、燃やしたいと思うような文章で、とにかく小説らしきものを延々と書き綴っていた。怒りのエネルギーを全部想像のエネルギーに変えて、憑りつかれたように文章をひねり出す。あの頃の禍々しい、マグマのようにお腹の底から湧き上がってくる黒いドロドロした力は、今ではすっかり感じなくなってしまった。それと比例するように、私は小説を書かなくなった。想像してまで逃げたいと思うような現実に対峙しなくても良くなった、ということなのかもしれない。

思春期、反抗期、というのは、あの黒い力のことを言うのだろうか。でも、「90歳なにがめでたい」の本からは、あの懐かしい禍々しいエネルギーを感じたのだ。あれは怒りのエネルギーなのか。怒りを忘れたから、今の私にはパワーがないのだろうか。怒りはエネルギーだ、と誰かが言っていた。私も少しは怒りを感じる状況に身を置くべきなのだろうか。私はもう怒りたくないし、イライラもしたくない。けれど、昔のようなドロドロした、喉の奥が焦げるような力はもう一度感じてみたいと思っている。

 

今週のお題「読書の秋」